こんにちわ!ハイリー(@yoshinagan77)です。
今年もあと2日、2018年をついつい振り返ってしまいます。
前半は精神を病み始めて、病み、しばし、休憩。
後半は病み上がりから徐々に回復、今は70%位まで戻った感じです。
「人生、楽ありゃ、苦もあるさ」って時代劇のテーマソングじゃないですが、そんなことを痛感する1年ではありました。
「人生、最後にチャラになる。(正負の法則)」
「生きてるだけで丸儲け(明石家さんま座右の銘)」ですね。
ついでに自分の人生を振り返りたいと思います。
就職氷河期だった学生時代を就職活動を全くせずにカナダへ語学留学をする為の資金集めの為にバイトに明け暮れ、ついにカナダへ。
ビビりのくせにドキドキ・ワクワクしたいという衝動がこれらの行動に現れてます。
我こそは「THE HSPxHSS」
HSPxHSSと私③ ~カナダ編~
カナダ行く前の準備
◆カナダを選んだ理由
(銃の保有がないが大麻吸ってる人が夜多かった)
②英語がクイーンイングリッシュできれい。
(オーストラリア、NZは訛りの癖が強い。)
③当時物価が日本と同等かそれ以下。
(今はカナダの方が高い。日本はずっとデフレだから。)
◆カナダに行く前の準備
②ホームステイ先の申し込み
③就学ビザ取得
④英語の勉強(主にラジオ英会話)
※1、2は業者に頼らずネットを駆使して全て自分で実施。
カナダ・ビクトリアへ
ついにカナダへ
大阪在住だったので、友人の車で関空まで送られていきました。
道中いつものたわいもないボケとツッコミの会話をしながら、「今から自分がカナダに行き、1年間異国で過ごす」とは思わず、ただ、日常を過ごしているような感じでした。
飛行機は「エアカナダ」。
乗ってからの記憶はあまりありません。
カナダ・バンクーバー空港に着き、乗り換えてバンクーバー島ビクトリアという田舎町へ。
一応、コロンビア州の首都になるこの町は非常にきれいでコンパクトな街です。
ビクトリアについて
大阪でいうところの「四国の高知か松山」みたいな感じでしょうか?
ビクトリア国際空港でホストマザーと合流して、ご自宅へ。
自宅は一軒家の2階建て、2階がご家族の住所スペースで1階がホームステイ生の部屋2つとシャワー・トイレ、ビリヤード台。
とにかく、家の大きさには「ザ・白人の家」とビビりました。
ルームメイトはブラジル人弁護士。
年上の彼は英語圏での仕事を増やしたいとカナダに英語の勉強に来ており、訛りはあるものの流ちょうに英語を話していたのは覚えています。
彼とはペプシを飲みながらビリヤード、夜のバー徘徊などいろいろ遊びました。
ホストマザーはシングルマザーの会計士。
仕事が忙しいせいか夕食は大体冷凍食品。
正直、食事の至らなさに2か月くらいで「さよなら」するのですが、息子が1人いてよくニンテンドーのゲームをして遊びましたね。
語学学校生活
語学学校は都心のビルの1フロアにある学校でした。
クラスは
②Elementary(初級)
③Intermediate(中級)
④Upper Intermediate(上級)
⑤Advance(特級)
の5クラスありました。
制度は通常1クラス3か月学習。
ただし、2か月目にテスト(筆記・面談)を受けて合格すると上のクラスに移れます。私はElementary(初級)から初めてIntermediate(中級)を4か月で終わらせました。
当時のクラスは日本人40%、台湾・韓国40%、中南米20%という割合でした。
これでも日本人が少ない学校を選んだんですよ。
当時は「日本は物価高」といわれていた時代なので海外の方が生活費が安かったせいか日本人はどこにでもいましたし、我々世代の人口も多かったのも一因かもしれません。
もっと少ないところにいくととんでもない田舎(カルガリーとか)になるので、それはちょっと寒すぎるし、田舎すぎるし嫌だなぁと思ってやめたのを覚えてます。
この辺も「HSPxHSS」の特長が出てるように思います。
「ビクビクしてるくせにワクワクしたい」→「あー、面倒くさい!!!」
普段の生活は主に日本人とつるんでいました。
基本、学校内は母国語禁止なので全て英語だったので、放課後は日本人5人とよくつるんでいたかなぁ。
でも、海外に出てくるだけあって、「日本社会になじまないんだろうなぁ?」と思われる個性の強い人が多く(もちろん、勉強しにきている方もいました)、その個性に圧倒されてしんどくなることもありました。
基本、HSPなので人に合わせるし、嫌われないように立ち回るので個性強すぎる相手だと振り回されます…。
ちなみにまだ、外国人といる方が英語を話すこと以外、私は楽でした。
理由を言って「YES、NO」を言えば、空気を読むというような感覚がないので、シンプルで楽だったのです。
そんなこんなで4か月、このビクトリアで過ごします。
ビクトリア事件
自分の中での勝手な妄想事件簿を2つ紹介。
メガネ事件
カナダは間接照明が多い上にお店でもメニューはすべて遠いところにあります。
日本のようにカウンターの上に手元メニューがなかったのです。
あまり目のよくなかった私(でも、日本ではあまり気にならなかった)は、注文するにしても一応持ってきてたメガネがないと注文もできず、ヤキモキしてました。
授業も間接照明で席によってはホワイトボードも見えないので授業中もメガネをかける。
ついにはメガネなしでは生活できないことに。
ここで普通の人はメガネをかけますよね?
HSPは自分に強いルールがあります。
しかも高度な要求を一般ルールとしていることがあります。
「メガネをかけてる自分はダメだ、カッコ悪い」と急激に劣等感を感じるんです…(ホンマ面倒くさい)
そして、勝手に落ち込んでホームシックになり、ホストマザーに相談するもこういわれます。
「あなたはただ自分の世界でもがいてるだけでの心配性、気にしないで」と
今思えばそうなんですが、その当時は人生経験も少なく、すべてが万事に思えたお年頃。
「そういわれてもなぁ…」と思いながら1か月程悩み続けます。
コンタクトを買うために眼科に行き、コンタクトを買い、目にいれては「目がゴロゴロする」と嘆き、「メガネやー、コンタクトやー」とジタバタして結局メガネにして、落ち着きます。
よくよく考えるとコンタクトを買う為に学校の紹介で眼科にいっては英語で説明して、コンタクトを買い、それを目に入れて人生初コンタクトを海外デビューして試行錯誤してる様子は「行動力あるな!」と自分でも振り返って思うのですが当時は苦しみから逃れるために必死の行為。
もう少し客観的に自分を見れればもう少し無駄な時間を過ごさなくてもよかったんだと思います。
が、そこはHSP Highly Sensitive Personです。病気じゃないけど病的でした(笑)
英語話されへん事件
これも勝手な妄想事件です。
妄想=現実でないことを真実と受け取ること
私はカナダに語学留学にいくことを決めてから1年かけて英語の勉強を毎日してました。
基本的には「NHK ラジオ英会話」を毎日聞いて復習するというもの。
高校時代から英語、外国人には人並み以上になれていたことと学生時代に東南アジア周遊旅行に毎年1か月はいっていたのでそれなりの英語は話せる自負はありました。
その上、1年間毎日、ラジオ英会話を聞いて復習もしていたのですから人よりは話せると自信を持っていた訳です。
語学学校内では話せます。
生徒は英語が第二か国語の人やネイティブの先生たちは仕事なので当然聞いてくれます。
でも、ホストマザーやその親戚達と話す時の聴き取れない、話せないという悲しさ。
最初は「まぁ、こんなもんか」と思うものの日が経つにつれて上達の度合いは感じられず、焦る、HSPですからここでも自分に高度要求します。
当然、要求したレベルに達しないので焦る、悩む、自己否定に入ると負のスパイラルに。
プラス、メガネもかけないといけない。
理想の自分とのギャップに絶望してネガティブなってしまいました。
悩む時間があれば冷静に現状を把握して、何が足りないか考えて、いろいろと話せないなりにトライしていけばいいものの当時はそう思わず、悩んでばかりいたのです。
今思うともったいないなぁと思います。
この間、ホームステイ先を変え、老夫婦でホームステイを何件も受け入れているベテラン家庭へ移り、そこで、沖縄出身の男性と一緒になり、またハッパ好きの中学生のホストブラザーと出会い、少しはまぎれました。
ここではへたくそでも英語を受け入れてくれるホストファーザーとマザー、そして、ハッパなくてもシュールでそこそこ優しいホストブラザーに囲まれて多少は英語は上達します。
そして、悩みまくった挙句、私は別のところへ行こうと学校の先生に相談して、バンクーバーの姉妹校へ移ることになります。
これがまたハードな世界へ行くことになるのですが…(苦笑)
カナダ・バンクーバーへ
バンクーバーを知らない日本人は少ないんじゃないでしょうか?
バンクーバーについて
最初はバンクーバーも考えたのですが、とにかく都会のイメージがあり、ビビりの私はまずは田舎でまったり勉強してそれから別のところへと考えてました。
語学学校がバンクーバーにもあることは知っていたので、前述の通り、相談して、バンクーバー校へ移動しました。
契約期間は7か月だったので、ビクトリアに4か月、バンクーバーに3か月ということになります。
バンクーバーではホームステイではなく、ルームシェアとしようと部屋を探しました。
当時「TAKE OVER」という形で部屋と家具をそのまま引き継いですぐに住めるというシステムがあり、街や日本食料品店の掲示板の張り紙から連絡して契約を結びます。
日本より楽に安く住めるというものです。
その辺、日本も楽にいけたらいいのですが、村社会大国ニッポンでは周囲の目もあり、難しいのかもしれませんね。
見つけた部屋は2LDKの1室、リビングにカナダ人中年男性、1室に空手家イラン人男性、そして、私。
もともと友達の友達が住んでいたところを引き受けた部屋です。
テレビ、ビデオ、机、マットレス、布団があるシンプルな部屋。
キッチンには食器、調理器具は一式あり、シャワー・トイレは共用です。
とにかく、シャワー・トイレが汚く、洗面台の流れが悪かったので、掃除したら長い黒髪が大量に出てきました。
流れがよくなって気持ちよく思っていたらカナダ人中年男性から「シャワー・トイレがきれいになってよかった。前の中国人女性はとにかく使い方があらかったので注意したけどダメだった。日本人が来てよかった。」と褒められました。
が、「そういうならお前掃除しろよ!」と思ったのも忘れられません。カナダはその当時から中国人は多かったですし、郊外には大きなチャイナタウンがありました。
で、語学学校ですが、さすがバンクーバー、レベルが違います。
ここの各国の比率はビクトリア同等でしたが、なんだから空気感が違うのは今でも覚えています。
ふわっとしたアットホームな感じではなく、ピリピリとした競争感というかなんというか…
ちょっと苦手な感覚を覚えました。
クラスは Inter mediate(中級)→Upper Intermediate(上級) へ。
正直、ギリギリついていけるレベルです。 TOEICも600くらいだったような…
とにかく、負けないように勉強し、発言を繰り返しました。
個人的にもチューターをつけて、勉強に励みます。
そして、2か月でAdvanceへ。
ここの世界がレベルが高すぎて、ついに心が折れました。
「私は英語が話せたらいいなぁ。」感覚でカナダに行きました。
そして、そこそこはこなせるし、スーパーのお肉屋に毎日ハムとか買いに行ってたので、適当な会話もします。
楽しく過ごせる英会話はマスターしていたでしょう。
でも、Advabceの人達は違う。
英語で将来仕事をしよう、好きでここで学んでるという人たち。
だったらいいなぁ系の私が入るようなところではありませんでした。
レベルが違いすぎて自分を見失い、とりあえず、1か月休学。
本気の人には勝てない。
アメリカ西海岸を1周するツアーに参加するのです。
そこでもう一度、英語と向かいあって残りの1か月のAdvanceクラスを乗り越えようと試みます。
アメリカ西海岸 コンチキツアーについてはまた書きます。
しかし、この頃に自分の気質を分かっていたら別の考え方もできたでしょう。
でも、このHSPと定義は1996年に発表されたものでこの時の私は知る由もなかったのです。
今は知った以上、認識し、理解して自分の生活の向上に役立てたいと思います。
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