HSPxHSSと私①

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こんにちわ!ハイリーです。

今日も東海地区は昨晩から雨でテンション低めです。
やっぱり、青空の方が気分いいですよね。

今日はHSPxHSSと私について書きたいと思います。

幼少期

幼少期の私は一般的にいう「神経質な」子供だったようで、よく母親方の祖母、母親から「神経質やなぁ」「男のくせに」「気にしすぎ」とよく言われていたもので、自分はそういうものなんだとなんとなく受け入れなくてはいけない環境でした。いろんな本を読んでもHSPは「生まれ持った気質」x「幼少期の環境」によってその性格が形成されていくようです。

ですので、同じHSPでも「生まれ持った気質」のポジティブな面(微細な変化にも気がつく、周囲に気を配れるなど)を褒めて育つとHSPのネガティブな面(繊細、神経質、敏感など)はあまり気にならないようになるそうです。

残念ながら私は周囲からネガティブな面を強調され、インプットされて育ったみたいです。

幼少期の思い出といえば、母方の祖父母と花火を見に行き、綺麗な花火に見とれて買ってもらったアイスが解け落ちたことと花火が落ちてくるのを見て、自分に降り落ちてくると勘違いして大騒ぎしたことや予防接種で前の子供の泣きわめく姿を見て、保健所を逃げ回り、職員さんに網で捕獲されたことが今でもHSP的な思い出として残ってます(笑)
今考えても「ホンマに神経質だなぁ」、「アカンタレ(大阪弁でダメな子)」だと思います。

今でも覚えているのは幼稚園時代に先生にキレられて別室へ連れていかれ紙を裁断する器具の上に頭を載せられて「今度、ガタガタいうたら殺すぞ!」を脅されたことは忘れられません。
今でも先生の名前は忘れられずにいます。親に言おうが誰に言おうが信じてもらえず、大人不信になっていたかもしれません。

小学校時代は低学年時はスカートめくりに熱心な子供で授業中にもやってしまい、バケツを持って廊下に立たされたこと(カツオ状態)は何度かあります。神経質なわりにそんなことやってしまうところがHSSな面の表れだったのかもしれません…。

ちなみに勉強はできた方で嫌な記憶としては勉強熱心で有名な女子に授業しか聞いてなかったのにいつもテストの点数で勝ち続け、隣の席になってしばらくしてからのある日、授業中のテスト返却後に突然大泣きされたのを覚えてます。その時に自分にインプットされたのが「普通にしてるだけで人を傷つけている。」というなんとも言えない感情。この辺りはHSPなんですね…
この感情がその後の自分の性格の底辺でずっとくすぶり、一生懸命何かをやるという気持ちを萎えさせることになったと今でも思ってます。
「本気を出すをもっと人を傷つける?(今思えば勘違いですが…)」

中学時代

中学校は公立の家の近所の学校へ通いました。
この頃から自分がどこか人と感覚が違うということを感じ始めます。
それと学級というクラスになんとなく嫌な感じを覚えます。
今思うと同じ人とずっと一緒に過ごし、同じことをするのが嫌いだったんだと思います。
同調圧力拒否反応ですね。

部活も当初はバスケ部でしたがバスケットシューズが高いので親に迷惑だろうと買ってほしいといえずに部活を変えました。友人がいたこととお金があんまり掛からない理由でなぜか「卓球部」で卒業まで過ごすのです。ちょっとした「稲中卓球部」的なノリで遊びながら地区大会とか出てたりしました。成績はあまりよくなかったですよ(笑)

中学時代も勉強はそこそこできました。

どちらかというと優等生側になぜかいたという感じです。
HSPですので自分に高度な要求をしつつ、人に流されやすいので大人の求める方向に流れていたらそういう立場にいたんでしょうね。あまり頑張ったという記憶はありませんがそんな立場でした。

中学時代はボーイスカウトも熱心にやっていたので、毎週末にはみんなでキャンプに行ってました。

六甲山のイノシシがでるところにテントを張ってはイノシシに食料を食べられたり、ホワイトガソリンで焼き肉してはガソリン臭くて食べられへんとかいうでワチャワチャやってたというのが思い出です。

それなりに生きにくさを感じながらも自由に過ごしてたというのはあります。
でも、人と何かが違う、なんか疲れる、時々人と会いたくなくなるというのはありました。

 

高校時代

高校は吉本新喜劇の小藪と同じ学校で後輩になる高校に通いました。(あったことないですが)
一応、進学クラスに入りましたが3年間同じクラスメイトと過ごすという僕にとってはなんとも退屈なクラスであったことは今でも忘れません。ただ、周囲は優秀な人間が多かっただけに勉強に対する意識は急速に衰えていきました。「勉強って何の役に立つんだろう?」という疑問ですね。

クラス、勉強もつまらないのでボーイスカウトに本格的に力を入れて、それなりの評価を得ます。

ボーイスカウトには「富士章」、「隼章」と経験と実技でランクがあり、「富士章」を取ると当時ボーイスカウトに力を入れていたソニーに入社できたという話もありました。

私は確実にその階段を上りましたが、その当時のリーダーの手続きミスで「富士章」は残念ながら取れず、「隼章」で終わりました。ただ、地区内ではそこまでやる者は自分と友人の2人だったので、
地区内では重宝がられ、代表格として海外ボーイスカウト訪問時は京都案内など通訳として同行でいったこともあります。また、キャンプのはしごをして17泊18日の野外活動もしましたね。

あと汚い話ですが、キャンプファイヤー時にどうしても「う○こ」に行きたくなりましたが、
キャンプ場のトイレは遠い上に暗く、慎重に漏れないように向かっていったのですが、なんせ軽い山道で足元も悪く(キャンプファイヤーやってますから)、歩く足を石の上に置いて体勢を崩し、踏ん張ったせいで、山中でお漏らししたこともあります。あれって一回出たら最後までイクまで止まらないんですよ。(知らんがな!?ですよね?)その後の惨劇は親友以外知りませんが、記憶は定かでないですが、戻った頃にはキャンプファイヤーは終わりかけてました。

と今思えばこの辺りはHSSの気質が発揮されて楽しんでたんだと思います。

ただ、当時のリーダーは私はパートナーだった友人がいない時はビクビクしてたというのでその友人のお陰でHSPの部分はかき消されたのでHSS部分で楽しく過ごせたんだと思ってます。

余談ですが、ボーイスカウトで春の甲子園の行進に大会旗を持って参加しました。

他にも学校の英語の女性外国人アシスタント(イギリス人24歳位)と仲間の家で英語の課外レッスンと「オレンジジュースクラブ」と称して、少しお酒を飲みながら楽しんだ時期もありました。

学校内での退屈さを学校以外で発散して楽しんでいた高校時代、
あの頃からもう状況を見ては「誰と誰が付き合ってて」「誰々はこうで」とかいろいろと目に見えないものは感じ取れていたのでクラス内のポジショニングは絶妙だったと思います。
ただ、月~水はいいけど木金は異常に疲れていたのは覚えてます。
特に朝から人に会うのは本当に苦痛でした…

ということで大学以降はまたの機会に書きます。

HSP
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